ダーク ピアニスト
―叙事曲1 Geburtstag―

第4章


 ルビーがラズレイン家に来てから2ヶ月が過ぎた。その頃になると、彼もすっかり慣れて、生活にも大分リズムが出来てきた。新しいピアノも来た。彼は、1日の大半を散歩とごっこ遊び、それにピアノの練習に費やした。
「ここは本当に素敵だね。ぼくが何をしても叱られないし、何をするのも自由なんだ」
彼は新しいピアノで自由に曲を弾いた。
「この音、少し狂ってる……」
彼は使用人を呼ぶと言った。
「明日までに調律しておいて」
「はい。かしこまりました、ルビー坊っちゃま」
彼らはルビーのどんな我侭な要望もきいてくれた。それは、ジェラードの命令だったからだ。

「エレーゼ! 庭でかくれんぼしようよ」
エスタレーゼが学校から帰って来ると、ルビーはいきなり彼女の手を取って行こうとした。
「ちょっと待って、ルビー。わたし、今帰って来たばかりなのよ。それに、空を見て。雲がいっぱいでしょう? 雨が降り出すかもしれないわ」
「だって、ぼく、遊びたいんだもの」
「なら、お部屋で何かしましょうよ。そうだ。3時半からテレビでアニメーションをやってるわよ」
「アニメーション?」
「ええ。一緒に観ない?」
「うん。観たい」
ルビーは急いで駆けて行ってテレビのスイッチを入れた。

「あれ? この音……」
カラフルな色彩の絵と音楽。そして、聞き覚えのある言葉……。
「日本語だ」
何だかとても懐かしい気がした。それはルビーの知らない作品であったが、確かに日本で製作された物だった。音声はオリジナルを使い、台詞は字幕で流している。
「わかる。ぼくはまだ、ちゃんと日本語覚えてるよ、母様……」
その意味を理解して、彼は笑った。それは、楽しい子供向けのアニメだった。
「アハハ」
ルビーが笑ったので、あとから来たエスタレーゼも画面を覗く。と、次の瞬間、またルビーが声を上げて笑った。彼女も字幕を読んで吹きだした。
「ねえ、観て! これ、すごく面白い」
「そうね」
エスタレーゼも微笑する。が、ふと彼女は気づいた。彼は字幕を読んでいない。

「ルビー、あなた日本語がわかるの?」
「うん。わかる。それに、少しなら話せるよ。母様に教わったの」
文字が読めないと言うので、彼女はずっとルビーが言語は苦手だと思っていた。しかし、実際は違った。ルビーは聴覚を使った学習は得意らしい。よく話を聞いてみると、彼は英語とフランス語にも精通していた。
「すごい。ルビー、あなたにも得意な事があるじゃない」
「でも、文字はだめなの。いくら見てもよくわかんないの。頭の中でごちゃごちゃになって……」
「でも、話したり、聞き取ったりするのが出来るんですもの。やっぱりすごいわ。それって自慢出来る事なのよ」
「そうかなあ?」
彼はカーペットに並べた積み木を意味もなく積んだり、でたらめな形に置いたりを繰り返していた。

「もしかしたら、他にもすごい能力があるかもしれないわよ」
エスタレーゼが言った。
「すごい能力……?」
「そうよ。人にはない力。あなた、ピアノと語学の天才かもしれなくてよ」
「ピアノはね……」
彼はクスリと笑う。手元の木片を幾つか重ねる。それをとんと崩して頷いた。
(そう。ぼくには力がある。人にはない特別な力が……)
その力に気づいたのは、あの暗い地下室にいた時だった。


 雷が鳴っていた。稲光が閃き、冷たい雨が頬に当たる。
「……暗い」
彼はぼんやりと目を開けた。強い光。そして雷鳴が轟いた。そして、雨の音が聞こえた。
「ここはどこ……? 冷たくて固い……。怖い……。どこ?」
風が吠え立てていた。叩きつける雨音。そして、空が壊れるような響き……。
「母様……どこ? マリアンテ!」
彼は身体を起こして周囲を見た。暗闇の中に浮かぶ影。血と錆びた鉄と埃の臭い。ひっきりなしの稲妻が中の様子を照らし出す。そこは何処かの地下室だった。周囲に箱がたくさん積まれていた。正面には固い鉄の扉が有り、奥にはぽっかりと口を開けた四角い暗闇が覗いている。

「怖い……!」
彼は急いで立ち上がろうとして背中に強烈な痛みを感じた。
「ウウッ!」
それから、服のあちこちに染み付いた血の跡を見た。それは手にもこびり付いている。はじめ、その意味がよくわからなかった。何故、自分がここにいるのか。どうしてこれほど大量の血が付着しているのか。
「どうして……?」
彼は雷鳴に怯え、扉の取っ手にしがみついて震えた。ガチャガチャとそれを回し、押したり引いたりしてみた。が、
「開かない……!」
扉はびくともしなかった。振り向けば巨大な闇が今にも襲い掛かろうとするかのように凶暴な声で吠え立てる。鋭過ぎる光は彼の身体を切り裂こうとしているかのように怒り来るっている。

「やめて……。怖い……怖い! やめて!」
彼は再び扉の取っ手にしがみついた。そして、それを開けようとどんどん叩く。
「開けて! 怖いよ! 開けて! 母様! 父様! マリアンテ! 来て! 誰か、助けて! ここから出して! 出して……」
が、その声は誰の耳にもとどかなかった。いくら泣いても叫んでも、少年の悲痛な叫びを聞きつけて来る者はない。まるで世界から隔離されてしまったかのように……。

やがて、彼は疲れ、涙さえ枯れてうずくまった。膝を抱えてうとうとしていると、高い通気窓から光が射した。それはやさしい月の光だった。彼は目の前の空間に腕を伸ばした。そして曲を弾いた。
「ピアノ……」
彼の耳にはそれが聞こえた。静かに、そして、激しく波打つ月光の調べが……。

 朝になってもそこは静かだった。鳥の声さえ聞こえない。小さな窓には鉄の網がはめられている。そこから差し込む僅かな光。それを頼りに彼は地下室の中を探索した。そこに積まれていた箱の中には様々な食品の缶詰が詰められていた。更に階段を下りて行った場所にはワインの蔵があった。あとはよくわからない紙の束やシート、動かない時計やタイプライターなどもあった。それらの幾つかの物が彼の命を繋ぎ止める糧となった。が、そこに缶詰を開ける物もコルクを抜く道具もない。ワインの栓は抜けず、缶詰はいくら叩きつけても僅かにへこむだけだった。
「お腹が空いた……。それに喉も乾いた……。お水が欲しい……」

 次の日は雨だった。通気窓からそれが吹き込む。見るとその壁を雨水が滴っている。
「水だ……」
彼はその雨水を指先で受けて舐めた。しかし、それだけで満たされる筈もない。彼はもう一度瓶を床に叩きつけた。何度も何度も繰り返し……。そうして、何度目かの時、ようやくそれは割れた。しかし、その中身の大半は、砕けたガラスと共に床にこぼれてしまった。それでも、瓶の底に少しだけ残っていた液体を欠けた瓶の淵からそっと飲む。
「痛い……!」
口の中が切れて血の臭いがした。が、それでも、彼は諦めず、今度は手で掬って吸い、指先でなぞって舐めた。それは甘く酸っぱい味がした。身体がほんの少しあたたかくなった。

ワインのボトルはたくさんあった。しかし、その瓶は厚くしっかりとしていて丈夫だった。もし、その栓を開けることが出来たなら……。だが、まだ10才だった彼の力では固いコルクはびくともしない。限界が近づいていた。もう、声を出すことも泣くことも出来ずに彼は床に寝転び、ぼんやりと天井を眺めていた。すすけた天井。そのあちこちに出来た蜘蛛の巣。壊れたままの電球を這い回る虫。そのすぐ側に張り巡らされている罠。そこへやって来た生贄……。金網を抜けて外から来た小さな蛾が蜘蛛の罠にはまり、もがいていた。

「羽が取れなくなっちゃったんだ……」
彼は蜘蛛の巣に捕らわれた蛾を見ているうちに、まるで自分の運命と重なるように思って哀れに思った。
「逃げて……」
自分は運命から逃れられないが、せめてその小さな生き物が罠から逃れ、また外の世界へ羽ばたいて行って欲しいと願った。
「逃げて」
もがけばもがく程絡まる糸……。電球の影からのっそりと顔を出す蜘蛛。
「だめだよ、逃げて!」
その時、カッと何かが彼の中で弾けた。一瞬、何かが熱く燃えた。そして、次の瞬間。小さな蛾は、蜘蛛の巣から逃れ細い通気窓の明かりを目指して飛んで行った。

「よかった……」
彼は放心していた。何が起きたのかわかっていなかった。が、その手は熱く、鼓動はひどく高鳴っていた。
「喉が乾いた……」
近くには開かないワインの瓶が転がっていた。
「喉が乾いた……」
もう何日も雨は降っていなかった。
「お水……」
意識が消えそうになる。
「水を……」
ボトルが手に触れ、冷たさが伝わる。
「水……」

彼はそっとそれを転がして引き寄せた。ちゃぷちゃぷと音が聞こえた。
(これを開けられたらいいのに……)
しかし、もう彼にはそれを持ち上げ、コルクを握る力さえなかった。
「水の音……」
ボトルの中でそれは揺れた。
「飲みたい……飲みたい……喉が乾いているんだ。とても喉が乾いて……死にそうなんだよ……お願い。開けて……これを……」
――開けて!

心臓が破裂しそうなほど鼓動が早まっていた。頭の中も身体も異様に熱く、何が起きているかわからなかった。が、手に何かがこぼれていた。それは液体だった。彼はそっとそちらを見た。ボトルからワインが溢れて手に掛かっていたのだ。彼は恐る恐る瓶を起こした。それからゆっくりとそれを引き寄せその口の中を覗く。瓶の中で揺れる艶やかな液体はまるで小さな宇宙。細波だった海のように見えた。
「水だ」
彼は夢中でそれを飲んだ。それは甘いジュースのようだった。それで気分も少しよくなった。寒さもまるで感じない。それはとてもよい物に思えた。彼はそっとその瓶が倒れないように箱の隅に置いた。足元に抜けた長いコルクが転がっている。
「どうして取れたんだろ?」
彼は軽くそれで瓶に蓋をした。それから、彼は別の瓶でも試してみた。それは上手く行ったり行かなかったりした。が、彼は気の力でコルクを、やがては缶詰を開けられるようにさえなって行ったのだ。が、まだそこにいる間は小さな力しか使うことは出来なかった。扉の鍵を開けて外に出る事は出来そうになかった。

 それからまた、どれくらいの時間が過ぎたのか彼にはまるでわからなかった。が、髪が伸びていた。寒い夜には埃だらけのシートに包まったり、大きな箱の中に入ったりして暖を取った。が、今はもうそんなことをしなくてもあたたかくなった。ワインはまだ相当な数あったが、缶詰の方はだんだん少なくなっていた。が、残りが幾つなのか彼には数えられなかった。しかし、彼は気にしなかった。大きな箱の上に乗ったり、一人でかくれんぼをして遊んだり、時には母から教わった子守唄を歌ったりして過ごした。と、その歌声を聞きつけて来た人がいた。それは一人の老婆だった。

「まあ、この声は何処から聞こえるのかしら? 美しい声だわ。そこにいるのは誰?」
その声を聞いて子供は大声で叫んだ。
「ここだよ! ぼくはここだよ!ねえ、お願い、ここから出して! お腹が空いたの。喉も乾いてるの。お願い」
彼は懸命に積み上げた箱を登ると小さな金網の窓の下に手を掛けた。金網の下の部分は止め具が取れてがたついていた。少しだけ手を出すことも出来た。が、それ以上は動かない。
「ここだよ」
彼は呼んだ。が、それきり声はしなくなり、足音は行ってしまった。あまりのショックに彼はしばらく箱に乗ったまま動けずにいた。

「どうして……!」
気づいてもらえなかった悲しみが彼を更なる闇へと突き落とした。
「母様、何処? ぼくを迎えに来て。そしたら、ぼくはずっといい子にしているから……。お願い」
闇の中へ手を伸ばした。ずきんと背中の傷が痛む。もう完全に塞がっている筈の傷が、治りきれない心の傷を抉った。
(父様がやったのだろうか? 父様は、それほどぼくが憎かったの? それほどぼくが嫌いなの? ぼくが……)

――父様のピアノはテクニックだけの偽りのピアノだ! ショパンのそれじゃない

あの時、父は怒り、母は悲しそうな顔をしていた。

――ルイ、お父様に謝るのですよ

が、彼は首を横に振った。
(ちがう! ちがうちがうちがう! ぼくは悪くない! ぼくは本当のことを言っただけ……。悪くない。ぼくは………)
しかし、そんな彼を見つめる母の表情はもっと悲しそうに見えた。

「あら、変ね。天使の声が聞こえないわ」
頭上から声がした。外だ。さっきの老婆が戻って来たのだ。
「ここにいるよ! ぼくはここに……!」
彼は再び箱の上に立って金網に手を掛けた。
「まあ、こんな所に……」
声が聞こえた。その姿は見えなかったが、彼女はしゃがんでその手に何かを握らせてくれた。それを掴んでそっと引き抜くとキャンディーが2つ開いた掌から出て来た。
「ありがとう」
彼は言った。
「天使ちゃん、またあなたの可愛い声を聞かせてちょうだい」
老婆が言った。
「いいよ」
言うとルイは歌った。パチパチパチと拍手が聞こえた。
「まあ、とても素敵だったわ。また聞かせてくれる?」
「うん。でも、ぼくはここから出たいの。そしたら、もっとたくさん聞かせてあげる。ピアノだって歌だってもっとたくさん……」
しかし、老婆は去ってしまった。そして、もう戻って来なかった。だが、手の中にはキャンディーが残った。甘いフルーツキャンディーは彼を少しだけ幸せな気分にしてくれた。

 それから数日して、またあの老婆が現れた。今度はパンを持って来てくれた。それがその時の彼にとってどれほどの価値があったか、それはとても口では言い表しようがなかった。彼は老婆に感謝した。それからも彼女は時々食べ物を持って来てくれた。たまにはビスケットなどのお菓子も……。しかし、彼女は決して他の人に知らせてはくれなかった。そして、地下室の鍵を開けてくれることもなかった。彼女は認知症の患者であり、時折家を抜け出して近所を徘徊している老人に過ぎなかったのだ。そんな事情を知りようもなかったルイにとっては、何故食べ物はくれるのに自分を助け出してはくれないのかと疑問に思っていた。が、この彼女の存在が彼の命を救ったことには変わりない。

 それからまた、どれくらいの時が過ぎた頃だろうか。地下室にあった食料は底をつき、あれほど大量にあったワインもいつの間にかなくなった。
老婆が現れる頻度も減り、彼の体力も限界に達した。最後に老婆がくれた小さなキャンディーの入った丸い缶を振り、彼はぼんやり考えた。
(もう、あと一粒しかない……。これをなめたら本当のおしまいが来るのかな?)
からからと力ない音がする。彼は遂にその一粒を手に取った。赤い透き通ったいちごのキャンディー。彼が好きだった味……。
「甘い……」
彼は天井を見て微笑した。と、そこへ誰かの靴音が聞こえた。それから、ガチャガチャと鍵を開ける金属音。初めは幻聴かと思った。が、そうではない。誰かがここへ入ろうとしているのだ。彼は耳をそばだてた。すると、扉の金属音は消えて誰かの声が聞こえた。それはあの老婆と男の声だった。二言三言会話を交わし、それから……銃声が響いた。

(何……?)
鼓動が高鳴る。
「おばあさん……」
彼は力を振り絞って身体を起こす。その時、扉が開いた。そこに現れた男の顔を彼はよく知っていた。男の手には銃が握られている。そして、その銃口からは微かな煙が流れていた。男の影に何かが倒れていた。
「まさか、お婆さんを……?」
彼は驚愕し、男を見上げる。

男は冷たく表情を強張らせたまま少年を見下ろしている。そして、ゆっくりとその銃口が彼に向けられて行く。
「やめて……」
ルイはゆっくりとあとずさった。
「開かれた彼の背後の階段の上から射し込んでいる光……。その細い光が幾つも分かれて白い花びらのように見えた。そしてその向こうにわだかまる影が母のそれと重なる。
「やめて! 父様! 撃たないで……。ぼくを……」

――フリードリッヒ、やめて

幻の母が彼を庇って前に出る。その母に向かって銃口が向けられる。
「やめろーっ!」
(母様を撃たないで……)
光の渦が弾け飛んだ。熱に浮かされた記憶……。その断片が彼を傷つけ、降り積もった悲しみが心の奥で凍りついた。


 「それから先のことはよく覚えていない」
ルビーは激しく首を横に振って言った。
「気がついたら病院にいて、それからすぐにまた別の病院に移された。そこがあのいやな精神病院だったんだよ」
彼は拳を握った。身体が小刻みに震えている。
「そうか。辛いのによく話してくれたね」
ジェラードは彼を抱き締め愛撫した。それから、たくさんのおもちゃやお菓子もくれた。

「君のその力を今度は正義のためにこのグルドの組織のために使ってくれないか?」
甘く囁くような言葉。
「それが1番いいことなの?」
見上げる瞳。
「ああ。それが1番いいことなんだ」
「でも……」
「なあに、心配ないよ、坊や。そのために、君に必要なことを教えてくれる人が来るからね」
ルビーはじっと積まれた人形の山を見ていた。そんな子供の背をやさしく撫でながらジェラードは続ける。

「その人の言うことをよくきいて、君は正義のための勉強をするんだ」
「だめだよ。ぼく、勉強は苦手なの」
彼は不安そうな顔で男を見つめた。
「ハハ。心配ないよ。勉強といっても外で運動をしたり、ゲームをしたりする楽しい遊びのようなものだからね」
「ぼくと遊んでくれるの?」
ルビーはうれしそうに訊いた。
「ああ。彼のいうことぉきいていれば、きっと君はプロになれる」
「プロ?」
「ああ。正義のために働く立派な人間にさ」
「ほんと?」
「ああ。私を信じなさい。そして、その人のことを信頼するんだ」
「わかった。ぼく、信じるよ。そして、その人のいうことをきいて、正義の人になるんだ」
少年はマスクを付けた人形を持つと自分がヒーローに扮したようにはしゃいだ。
「そうだ。いい子だね、ルビー。本当にいい子だ」
ジェラードは目を細めてそんな彼を見つめた。


 それから数日が過ぎたある日。ルビーは美しい花の庭を散策していた。春の風はさわやかで気持ちがよかった。鳥達が歌い、蝶が花と戯れている。ルビーは自分も蝶になった気分で花壇の周りを駆け回った。
「どうして人間は空を飛べないんだろ」
彼はゼイゼイと息を切らして立ち止まる。
「空を……」
彼は深く息を吸うと高い空を見上げた。それからフッと微笑んで言った。
「ぼくなら飛べる」
彼はそれを試そうとしていた。が、不意に人影を見つけて留まった。
「来た!」
それはまだたくさんある花壇のずっと向こうだった。が、彼はそちらへ向かって駆け出した。

 それは、彼が待っていた人だった。今日、その人が来るとジェラードが言ったのだ。彼の訓練を担当してくれる人が……。

 それは背の高い若い男だった。短く刈られた銀髪に緑色の瞳。美しい顔立ちだが、やや冷徹な印象もした。
(何となく父様に似てる)
だが、目と髪の色が違う。父は濃いブルーの瞳にブロンドの髪をしていた。それに比べて今、目の前にいる人は他の何にも染まらない銀の髪と澄んだ緑の瞳をしている。美しい花や植物が好きだったルビーはその目を見て緑の葉を連想した。そして、その男に好感を持った。
「ねえ、何して遊んでくれるの?」
ルビーは自分より遥かに背の高いその男を見上げてうれしそうに言った。